
♪6月5日(木)
佐伯在籍:担当ほら貝「アウトドアホームレス」ライブの様子 10時過ぎまで盛り上がりました。


「サエキシンリョオ ノ シャシン」 高橋淳子 canon写真新世紀アートディレクター
ここに展示されている2つの写真は、彼が発見し、撮ってしまった、という写真である。一つはインドの海辺で、そして一つは自らの生活圏となる、とある大阪の公園の中で。なぜだかこの発見された2つの写真は、まるで異なる物体が写し出されているにも関わらず、全く同じに見えてくる。やれやれ、本人は、その謎をときあかしたいがために?今回の写真集は制作された。しかし、謎を解きあかすどころか、この2つの写真は、強烈に強力で、彼の他の写真をも、び・つ・く・りさせてしまったような、異質な空気感を醸し出している。そして、すべての自らの写真の中で、実は彼自身がポッカリ浮き上がってしまい、足を滑らしてしまったような、そんないたずらで、ずっこけたシーンを想像させるブックの締めくくり。そんな奇妙で、狂気なリズムの持ち主こそが、きっと、サエキシンリョウなのだ。ただただ、乱暴に1つの物体として、今もなお放置されているはずの距離を挟んだ2つの物体。事実という事実をうち消せない秋霜感漂うこの2枚の写真。しかし実は、全ての写真になぜかそういう異質なものが共通して写し出され、実に漂っている。ただ単に、今も放置されているだろう彼の巨大なる、まな板。ただ単に、今も餌を求め首を突っ込んでくるだろうというような勇ましいハト。ただ単に、弧を描くようなロマンチックな大空を反射させる水たまり。ただ単に、書いてしまったたばこの電話番号に火がつけられるこのうえない無意味な瞬間。冷蔵庫に貼られた血の痕跡が残る包帯。仕掛けられてしまった木の上のCD・・・。そんなトリックのような彼の身の上におこる現実を踏まえて、ちょっとつぶやいてみよう、「写真って残酷やなぁ。」サエキの身の上におこる写真は、今はただ事実に基づく、見た視線、見てしまった視線でもある。撮れた写真、撮ってしまった写真をも含めて、実に今はごちゃまぜに混在され、集積されている。しかし、それこそが、今の人生のすべてだ。大好きな音楽や出会ってきたかけがえのない人々。見た物への感謝の気持であるような、そんな人のよさが、サエキの視線と愛嬌を持って重なり合いシャッターが切られ綴られていく。時間がたち腐敗した人間の体は、残すところ服と骨だけの抜け殻だ。異臭もしなければ、肉体という生身の姿を連想させることすらも、今となってはおぼろげで曖昧な記憶。そしてそのフィールドで見つけた雑草の新芽の緑。新しい命がそこから息吹を放つ感動!それを発見できた写真という名の喜び。そんな細かいところから、写真に入っていきたいんだ。そんな願いが自然にジーンと伝わってくる。「一体、これから何をしていったらいいんやろ。なんか見てしまうし、撮ってしまうというのは真実なのに。」その心の赴くままの素直な気持が物を作らせ、創造を生み出すパワーとエネルギーになってくる。そこから、始めよう。いいカメラマンになる必要はない。いい目をもって見つめるだけでいい。人間って、何をしていったらいいのかなんて大体、わからないもの。でも、生きるんよ。だからこそ、生きるんよ。生きているという簡単な事実がとても貴重であるということに、気が着く瞬間、写真がぐっとおもしろくなってくる。生きてる時代が写真に写る。生きてる場所、時間が鮮明に写真に写る。み〜んな、サエキシンリョウが見たもんです。それをとっても大事にしてくれたら、私はあなたの人生をこっそりと追っかけて、ページを捲ることができるでしょう。大好きな人への花束、風化した死体、置きざらしにされた壊れたバイク。ずっと見つめながらして、ありがとう。って言ってみせよう。サエキの視線の奥深い発見に、いえなかったかけがえのない気持を込めて。そんな気持を抱ける人生の発見を、もっといっぱい見つけてほしい。滝に打たれた後の、厳しい冷たさから得られた開放感のような写真を、いつまでも火の中に飛び込んでいける野心を伴って。それが、きっとサエキシンリョウノ、現在進行形のシャシンなのである。きっとね。

